昭和44年01月30日 夜の御理解
おかげを頂くということは、本当のおかげというものは、私共の思いとか願いということの中にはないのです。その私共の願いとか又は思い以外に必ずあるもんだと、これは本当にわからなければいけない事ですけれども、私共がねどうぞ右になります様に左になります様にと言うて、お取次ぎを頂いて願う。そして願い通りのまぁおかげを頂いくのですけれども。それは私共がねまぁ神様から頂くおやつの様なものです。
まぁところが私共はやはり、なら神様の目からご覧になりゃ子供も子供、大変な子供でしょうからね、まぁ願いもしなければなりません。一心にまぁいうなら我武者羅に、地団駄踏むようにしてお願いする時も又あってもいいのです。それはおやつをねだる様なものですからいいのですけれども、神様のおかげというのは、願った中とか自分の思うておる中にあります。だからそこのところを一つよく分からせて頂いておいて、そして願うなら願うお取次ぎを頂いてまぁいかなければなりません。
今日吉井の森光さんがお参りして来た。毎日かぁ参ってきています。「先生もう一日、昨日もあんなおかげを頂きました、今日も又こんなおかげを頂きました。」と言うておかげのお届けをされるのです。昨日お参りして来た時にゃ「先生もう本当にもうたまがる様なおかげ頂きました」という訳です。と言うのもあちら今度ご長男が結婚式があります。それでもう九分九厘まぁ行こう貰おうと、本人達もいうっとるし、家の方でもそれをまぁ決まっちょったところが。
たったその日取りを決める時にところから、あのう破談になりかけたのです。先方では三月四日と言われる。こちらでは二月四日とこう言う訳で。お伺いに参りました。それでね私が申しました。「向こうで決められるのがおかげ」と私は申しました。もう一時はそのうご長男が、もうそげん事ならもう結婚式にゃ出らんと、言うてそのういいよりましたけれども、まぁ親先生がこげん仰ったからと言うので、まぁそういうことに決まった。そしてそのうもう客の準備の事やら、まぁ料亭でね披露宴をするのですから。
その打ち合わせやらに、昨日行かれたところが、向こうの方からもう大変気の毒そうにして言われるんですね。「本当にあげんして日取り決めとったつがあなたもう、本当に気の毒かけれどもあなた、こっちがあげん強引に決めて、決めてもろうっとったバッテンが、どうにも出来ないこうこういう訳の事情が出来たけ」とこういう訳なんです。そこでお宅の言いなはった、あのうもう二月四日にさせて頂きましょうち。そんならやっぱ家も本当はそれの方が良かったんですからと言うのですよね。
こう言うところに本当のおかげと言うものが分るでしょうが。だから自分の思いを例えば通してですよね。いいにゃもう二月四日でなかにゃもう出来んというて、まぁ我武者羅に言うて決めたところでです、あのそれが後でおかげと分かるというとが分かっても、それではあっちにもまたこっちも神様に対して、何かもうむほんした様な気が致しますけれども。こちらの思いを一ぺん捨てて自分の思いを捨てて。例えばあちらまかせになるということが、如何に神様任せであるかということが分かる。
向こうでは例えばその日にちなら出来ない、事情が起きてきておるというようなおかげである。今日も出て参りまして、ちょうどこのあのう夏の大祓式の翌々日だったでしょうかね。確かにここでお祓いを受けた車でしたけれどね、ちょっとした事故があってちょっと怪我をさせた息子さんが。西鉄に務めておりますが、何ですかバスの助手をしております。もちろん運転手が願いだったんですよ。ところがそういう事故があって以来もういよいよ自動車の運転だけは嫌ちゅういうことになった。
それから自分の方向を変えて、何ていうですかあのう清算、清算の方へ回らせて頂きたいと願いを立てられた。けれど清算と言うのは非常に試験が難しい。それをお願いしてありました。そしたら昨日子供が帰って来てから「お母さんおかげ頂いた、もう僕は本当に事故をした、事故をしたおかげで運転手を止めてよかった、おかげであのう清算のところの試験が通った」ちゅうてから帰って来たとこういうのである。
本当に例えば大祓い祓いを受けて、例えば一日二日後にその事故を起こしておるけれども、その事故も含めて、しかし本当のおかげという事が分るでしょう。だから自分の願いは運転手であったんですけれど、神様の願いは運転手よりも、自分のしかも清算の方が向いている訳なんです。それは難しいその難関を突破して、いわば試験に合格したのでございますけれども、神様の願いと私共の願いはこんなに違う。それを例えばそういう事故の中からです。
いわば運転手志望を断念させて、そして本当の道にこう辿らせておって下さるというような感じがそこんところから致します。だから信心させて頂いておりますとです、自分の願いとか思いと言うものの中には、例えば本当のおかげは無いと私は思う。ですからそのないから神様はね、の働きをね見せて下さる。お前はそれがいいと言いよるけれども、それは本当のおかげじゃないんだと。
私はもう商売人、私商売より外はしきらん男、もう商売でまぁ立身出世させて頂いて親孝行もさせてもらおう。また御道の御用も本気でさせてもらおうと、そういうこりゃ切実な願いであったけれども、おうおうと神様は聞いておって下さった様であったけれどもですね、その証拠にゃ一時は置いたものを取るように、商売が繁盛した時代があったんですから、聞いて下さっておるように聞きながら。
神様が本当の方へ本当の方へと、私を本当な方へ辿らせておって下さる。その間にそれは難儀もあったけれどもですね、その難儀もみんな本当のおかげの飛石伝いであった事が分るでしょう。そしてとてもとても夢に思わなかった金光様の先生にね。お取次ぎ者なんて言う大変な、なら御用を私にいわば天職として、一生この御用に私が奉仕させて頂く事でございましょうけれどもです。
神様の願いはここにあったと思われますね。ですから皆さんの思っておる事や願っておることやらはですね。その中には本当はおかげがないんだと。そこでならそう言う願いがあって、人間だからありますよ、痛ければ痒ければ、そこを治して頂きたいと願いがありますよ。だからお取り次ぎを頂いたら、それから先は任せにゃいかん。そこに自分の願いはもう、いわば薄いもんになって来た訳ですね。
お取次ぎを願ったらね、実際私はこうこうお願い致しますとこう願いはするけれどね、それから先はお取次ぎの働きに任せるところから、本当のおかげへの誘導が始まるのです。又はなら場合によってはです。これだけはどうでも是が非でもという様な言のある時には、本当に一心の信心をやはり貫かなきゃいけません。それこそ地団駄踏む様にしてでも神様にいわゆる祈念力です。お取次ぎのお徳にお縋りして一生懸命お縋りね。
然しそれは、そのうよくよく考えて見ると、自分の我情ね、自分の思いを満たして頂くというおかげに過ぎませんから。まぁいうならばおやつ的なおかげ、けれども縋れば下さる神ではある。同時に私共が本当のおかげを目指さして頂くならです。そのう例えば自分の思いを捨てての信心。そのところに精進させてもらはなきゃならんと、いうことが森光さんの昨日と今日の、二つのお届けの中から感じられますですね。
どうぞ。